ユースホステルについて

誰もが楽しく笑顔になれる宿

ユースホステル(YH)とは?

「ユースホステル(Youth Hostel)」は、20世紀のはじめにドイツで生まれた世界的な「旅の宿」ネットワークです。だれもが安全に楽しく、そして経済的に旅ができるようにと考えられたもので、現在、世界80か国、4,000のユースホステル(YH)があります。料金はとてもリーズナブルで、日本の場合は3,500円前後、海外の場合はもっと安く宿泊できます。日本には現在、北海道から沖縄まで約220か所のYHがあります。
またユースホステル運動とは、そのユースホステルを拠点に青少年を主体にした多くの人たちが旅(野外旅行活動)をとおして、自然や文化に触れ、自然の素晴らしさや文化の価値を理解し、またそれらの活動を通して触れ合う様々な人たちとの関わりによって、青少年自らが自力で成長できる場をつくることを理念とした考え方です。全国や世界にある全てのユースホステルが大切にしている基本理念でもあります。
YHの旅は、新鮮な出会いと感動の連続です。様々な国の人々と同室になって国際交流が生まれたり、新しい友達との出会いがあります。また、地元の最新情報やその地ならではの話題が入手できるのもYHならではの良さです。YHを基地に大自然の中を歩き回ったり、キャンプや自然体験をしたり、素晴らしい体験が待っています。もちろん、旅の宿として利用するだけでも楽しいものです。建物にも特色があり、ドイツの古城YH、スウェーデンの帆船YH、カナダの元刑務所YH、日本のかやぶき屋根のYH、ニュージーランドの広大な芝生の中のYHなど、数え切れません。生活面の特色は、随所でセルフサービスをお願いしていることです。ベッドメイキングや食事の配膳や下膳など、みなさんのご協力をお願いしています。
ユースホステルは本来は会員制の宿です。ご利用に際しては会員証を作っていただきたいのですが、団体での利用やビジター(会員料金にプラス648円)としてのご利用もできます。
会員証を作るのは、どなたでも簡単な手続きで入会ができます。日本で発行された会員証は世界各国で有効です。また、会員証の提示で割引や優待の受けられる施設も多数あります。沖縄国際ユースホステルでは会員証の即時発行も行っています。

沖縄国際YHとは?

おすすめポイント

団体だけでなく、個人・家族・グループの利用も大歓迎!
140名より全館貸切!修学旅行に!
総合運動公園隣接だから、スポーツ合宿に最適!
研修施設が整っているので、研修・セミナーに最適!
オリジナルロゴ
当ユースホステルは、空港から車で10分、モノレール壷川駅から徒歩5分、那覇バスターミナルからも徒歩10分という抜群のアクセス。
国際通りまでも歩いて行くことが出来ます。 建物の前には県立奥武山運動公園が広がっており、都会とは思えない緑豊かな環境。早朝のランニングや散歩など、都心のホテルなどとは一味違った楽しみ方が出来ます。
ユースホステルの特徴である二段ベッドのドミトリー室は、家族連れのお子様に大人気。人数の多い合宿などにも適しています。もちろんバストイレつきのツインルームや和室もあります。
奥武山公園は沖縄でも有数のスポーツのメッカ。そのため野球、サッカー、バレーボール、バスケットボール、テニス、柔道、剣道、空手などのスポーツ合宿によく利用されています。また最近は演劇、吹奏楽、エイサーなどの文化系合宿も増加傾向にあります。もろんマイクロバスの送迎も充実しています。 団体が多いユースホステルでは、個人利用の方が寂しい思いをすることが多いですが、当ユースホステルではその心配はありません。個人の一人ひとりを大切にした運営が基本です。
最近は海外からの宿泊者が急増中。ユースホステルに泊まって知らない外国の人と生の英語を試してみるという新しい楽しみ方もあります。 地球環境にやさしい施設づくりをめざしています。雨水処理の有効利用をはじめ、地球温暖化防止の為に様々な工夫を凝らしています。

ユースホステルの創設者(リヒアルト・シルマン)

19世紀が終わり20世紀が始まった頃、ドイツのルール工業地帯の郊外に、一人の小学校教師が赴任してきました。その名をリヒアルト・シルマンといいます。彼はとてもユニークな教育にたいする夢を持っていました。それは狭い教室を飛び出し、子ども達を野外の中で教育したいというものでした。
当時の先進諸国の都市生活は、産業革命以降の都市公害によって、煤煙や煤塵、排気ガスなどによる環境の悪化が凄まじく、工業都市などでは肺結核の病気にかかる子ども達が増加していました。また住宅難で子ども達の遊び場もなく、顔色の青ざめた子ども達が街にあふれていました。彼が教師となって赴任したのは、ルール工業地帯にあるギーゼンキルヘンという町で、そこもまた煤煙に煙る都市でした。彼はその環境の中で、この子ども達の健康を守るために真剣に悩みます。
そこで彼はこの都市から子ども達を野外に連れ出すことを始めます。都市と言ってもちょっと郊外に足を伸ばせば、そこにはまだ生きたままの自然があふれていました。小川には魚が泳ぎ、森の中には生きた野ウサギの走る姿がありました。子ども達は初めて目にする生きた自然に目を輝かせ、感動の声を上げるのでした。シルマンはその遠足の経験を通して、ますます「自然こそ最高の教室」であると悟るようになっていきました。
彼はワンダーフォーゲルのブームの中で成長した青年でした。当時のドイツではワンダーフォーゲル(渡り鳥)運動という青年運動が盛んに行われていました。それは今日的な言い方をすれば、大学生を中心とした青年達の自発的な自然回帰運動のようなものでしょうか。統一国家ドイツ誕生の熱気の中で、青年達は「私達の祖国を理解しよう」との合い言葉の元、ドイツの国中を渡り鳥のように旅をするのです。
もちろん交通機関が未発達な時代です。彼等は自ら荷物を背負って、自分の足で歩いて旅をします。宿になるのはたいてい農家の納屋か野宿と相場が決まっていました。また彼等は各地に伝わるドイツの民謡を掘り起こし、簡単な楽器でそれらを演奏することも楽しみの一つだったようです。
さてシルマンはやがて、ルールからさほど遠くないザワーランドのアルテナに転勤になりました。ここで彼は本格的な遠足活動を開始します。彼は授業もかねて、再三子供達を野外に連れだします。当初は「裸の先生」とよばれ、馬小屋に寝泊まりして歩く変わり者として評判になっていましたが、しだいにその信念に基づく地道な活動が認められていきます。
しかし彼はさらなるチャレンジを試みます。日帰りなどではない「長期にわたる遠足」を子ども達に体験させてやりたい。しかし同校の教職員会議に提案をしても、賛成する者はごくわずかでした。まだまだ生徒の親たちも先生にも学校にも、それを支えるだけの経済的なゆとりはなかったのです。
そこでシルマンは、食料を背負って徒歩で旅に出れば、自宅にいるのと同じ費用で生活できると考えました。つまりワンダーフォーゲルのスタイルを借用しようというのです。しかし問題は泊まるところでした。青年と違って子ども達を野宿させるわけにもいきません。この日から、彼はコース上にある大きな農家の納屋などを、無料で利用させてもらえるよう交渉する日々か始まりました。
何度かの試行錯誤を乗り越えながら、シルマンは子ども達を連れた徒歩旅行を企画し、そして実行し続けます。子ども達の喜ぶ姿こそが、彼のエネルギーの原動力となり、北へ南へ西へ東へと、シルマンの旅が継続していきます。
1909年8月26日。この日はシルマンの中に突然ユースホステル(ドイツ語でユーゲント・ヘルベルゲ)というアイデアがひらめいた日です。
この日シルマンはいつものように、子ども達を連れた遠足の旅の途中でした。アルテナからアーヘンへの8日間の旅でした。暑い夏の日差しの中、プレールという谷にさしかかった時のことです。今まで青空が見えていた空が、急にわき上がる雨雲に閉ざされ、一転して雨が降り出したのです。予定していた農家はまだはるか先ですが、この雨の中とても子ども達を連れて歩き通すことは困難に思われました。
彼は急いで谷にある農家を一軒一軒訪ねて、納屋の一部を貸してもらえないかと交渉しますが、残念なことに全てに断られてしまいます。最後の農家で、なんとか寝具に使うためのワラを提供してもらえたものの、次第に強くなる雨足の中で、シルマンと子ども達は途方に暮れます。
そのとき、ふとシルマンの目に留まったのが、夏期休暇で休校している村の小学校でした。シルマンはワラをも掴む心境で(実際にワラをもっていましたが・・・)、その学校の門をたたきます。
中から出てきたのは、休暇中の学校の管理を任されている老夫婦でした。
「お願いします。急な雨でごらんのとおり困っています。廊下でも軒先でもどこでも結構ですから、雨をよけるために場所を提供してもらえないでしょうか」。
シルマンの悲痛な叫びをきいて、心が通じたのでしょうか。その老夫婦は快く門を開け、そして彼と子ども達を教室の一室に招き入れてくれました。すぐにストーブに火が入れられ、そしてあったかいスープがふるまわれました。
雨で冷え切った子ども達に、それは何よりのもてなしでした。シルマンと子ども達は、老夫婦の親切に感謝をしながら、雨に濡れた衣服を乾かし、ワラと白いシーツで机の上に簡単なベッドを作りました。
外の雨はますますと激しさを増し、とうとうその夜は嵐になりました。窓を打つ強い雨と風。しかし教室の中は暖かさと静寂に満たされていました。疲れと安心で、安らかな寝息を立てる一人一人の寝顔を見ながら、シルマンはこの幸運を感謝しました。
「本当に良かった。あのまま寝るところが見つからないまま、この嵐になってたら、いったいどうなっていたことだろう・・・」。
外では嵐がますます激しさを増し、稲妻と雷鳴が谷全体に響き渡っていました。そのとき、シルマンの頭に、素晴らしいアイデアがひらめきいたのです。
「そうだ・・・・、そうなんだ・・・。うん、これはいけるぞ」。
彼が思いついたアイデアとは、今晩のこの教室のように、夏休みなどに学校の施設を、子ども達のために解放すると言うことだったのです。
「どこの町にも村にも小学校があるじゃないか。それを休暇中の間だけ、ホステルとして使えるようにすればいいんだ。
「空いた教室は、寝室や食堂に変えられるのを、待っているようなものだ。2教室あれば1室は男子用、1室は女子用にして十分に間に合うはずだ。
「教室のいすを積み重ねれば、15個の寝台を置けるほどのスペースができる。
「ぜいたくな設備は必要ない。寝台はワラを堅く詰めた寝具とまくら、それに2枚のシーツと1枚の毛布を使って作ればよい。
「利用する子ども達には整理整頓するように教え、一方、学校の世話係はシーツを清潔に保つことを心がける。
「どの地域でも先生がひとり、無給でホステルの管理に当たるようにする。先生は予約を受け、ホステルとその寝台の清潔を保ち、帳簿をつけ代金を受け取る。
「ホステルの数は多ければ多いほど良い。将来はドイツ中の全ての学校が、ホステルとしての場所を提供するようにすればいい。
その晩シルマンは、次々と浮かんでくるアイデアに興奮して、とうとう一睡も出来なかったと言われています。
1909年8月26日。シルマン35歳のときでした。そしてこの日こそが、ユースホステル運動が誕生した日とされています。
今日では世界中に広がっているユースホステルですが、その原点はこんな偶然によって生み出されました。学校を臨時的に開放してそれをユースホステルとして活用するという形態は、この運動が生まれた当時の一時期を除いて姿を消してしまい、今ではそのほとんどが恒常的な施設となっていますが、その基本精神は現在にまで受け継がれています。
ユースホステルが相部屋を基本としてること、セルフサービスの精神、旅人を暖かくもてなすホスピタリティーの心、さらには野外教育や体験活動との深い関わりなどなど、一般的なホテルや旅館と少し違う、ユースホステルの独自性はこんなところから出ているといえるでしょう。